■ 怪盗淑女 / 藤彩とも  グレー一色の服装をしたその男は、この日、真夜中に、忍びこむつもりだった。  ただし、そのためには、それがその屋敷の金庫に収まっていて、尚且つ屋敷の住人が不在もしくは寝静まっていなければならない。  その二点をどうしても確認する必要があった。  だから根気よく屋敷の監視を続けてきたのだ。  午前六時半、彼の努力は報われた。  大型の自家用車が、その名称にふさわしい、たくましく優美な姿を、地下の駐車場からあらわしたのである。  車は地階に通じる空洞の入口で一瞬、停止し、ドライバーが通りの左右を見渡して進行してくる車の有無を確認した。  そしておもむろに道路に乗り入れ、おそらくは空港に向かって走り始めた。  その男は慎重な男だった。  そして今回の仕事にも絶対の自信があった。  彼はロンドンでも一、二を争うほどの金庫破りの名人だ。  全ての物理的な法則を無視したかのようなその神業的な金庫破りは、”その鍵の存在そのものが殺されたかのように見える程”と同業者にも驚かれたものだった。  彼にとって、金庫の鍵などあって無いような物なのである。  カタチ有る金庫の鍵など彼の敵ではないのだ。  彼の実力を持ってすればそれを手に入れるのはいたって簡単な事だろう。  ただ———  ただ彼には失敗は許されない。  彼にこの”盗み”を指示した、『純白の吸血姫』は、彼の失態をを許すような——寛大な人間ではない—— ———取り留めないの夢を見ていた気がする。  そしてフトなにか気持ちの良いカンジがした。  とても安心できるこの優しいカンジは何だ ろうか…… 「—ん」 「—に——さ—ん」 「にいさん」 「にいさん。おきてください」  自分の意識の外でアキハの声がする…  まだカナリだるい。  起きているのはわかっているのだが、まだゆらゆらと夢の中にいるみたいだ。  高校は卒業した。  もう学校に行く必要は無いのに何故、アキハはこんなにも騒いでいるのだろう。  回らない頭で理由を考えてみる。アキハに騒がれるような理由はなんだろうか……… 「にいさん、ここまでしておきないなんて…」  その間もアキハは騒ぎ続けている。  ああ。   なんだ…気がついてしまえば何の事は無い。アキハはいつも騒がしいじゃないか…  要するにいつもの事だから気にする事は無いと言う事だ。  だいたい秋葉が起こしに来ているという時点でおかしい。自分はまだ夢の中なのかもしれない。  眠った頭でそう結論付けるとまた眠りに入る。  ヒスイが起こしに来るまで寝よう…… ”ぱしーーーーん”  そんな、まるで頬を平手ではたかれたような音でまどろんでいた意識は完全に覚醒した。 「あ————」  目の前には秋葉がいる。  状況がイマイチ飲み込めないが、とりあえず朝の挨拶を交わすことにする。 「秋葉おはよう」 「おはようごさいます。やっと起きてくださいましたね。兄さん」  我が最愛の妹君はどうやら見た目カナリご機嫌ナナメらしい。  どうして今日に限って翡翠ではなく秋葉が起こしに来るのだろう?  その何か言いたげな表情は最高に感情表現豊かだと思う。  そしてその感情表現からはあまりよろしくない意思しか汲み取れないのは気のせいだろうか。 「秋葉さん。一つ質問があるんですけど」  遠慮がちに手を挙げて質問する。 「どうぞ兄さん」  同じく生徒を指差すように指名する秋葉。 「左の頬がそりゃあもう不自然なくらいに痛いと感じている、わたくしめの五感はおかしいですか?」 なにか変な日本語な気もするが、寝起きはみんなこんなもんだ。  いや実際カナリ腫れてたりすると思う。 「自業自得です」  キッパリと断言する秋葉。  今日はいつもより本当に機嫌が悪い。  しかしちょっとの寝坊くらいで、こんなにとやかく言われる筋合いは無いと思う。  そもそも高校を卒業してから……卒業してからもう学校に行く必要もなければ早く起きる必要も無いのだ。 「そりゃあすぐに起きなかった俺に非がある事は認める。だけど秋葉、今のはちょっとひどいんじゃないか? 他にもいろいろ起こし方って物があるだろう?」  今になってカナリ本気で痛くなってきた頬が言葉をどうしても棘のあるものにしてしまう。 「では兄さんは、どのような起こし方がお好みなのですか?」  全く怯みもせずに言い返してくる秋葉。ただの寝坊にしては怒り方が尋常じゃない。  俺は気が付かないうちに秋葉を傷つけるような事をしてしまったのだろうか? 「私は最善をつくしました!   兄さんがあまりに鈍感で何をしても、すぐに起きてくれません。  何か良い方法があるのなら是非とも私にお聞かせ下さい!」  しかしここで引き下がったら兄貴としての威厳が保てないのだ!  と思ったところで、普段自分が兄貴として威厳ある態度で接しているかどうか実際問題かなり怪しいものだと思った。 …むしろ威厳があるのは秋葉のほう…ゴホッ  しかし今は、そんな事関係ない。  とにかく今俺は無性に引き下がりたくない気分なのだ! 少しいぢわるな返答をして秋葉を困らせてやろう。  愛ゆえに兄貴として妹に与える試練だ。 「そうだなぁ。秋葉は俺のことが好きなんだろ う?」 「そ…!それは当然です!」  慌てながらもまだ平静を装って答える秋葉。 「しかしそれが今関係あるのですか?」  冷静に切り返してくるあたり流石だ。 「だったら眠っている最愛の兄に愛の言葉を囁くとか、優しくキスして起こすとか、日頃の感謝を込めてもっと愛のある起こし方は出来ないのかねぇ」  心底傷ついたよ僕は…といったカンジで言う。  自分でも何言ってるんだろうと思ったが、案の定秋葉には効果覿面だ。  カーーーーーーーッと真っ赤に顔を染める秋葉。 プププ…可愛いなぁ真っ赤になっちゃって。  しかし正直ここまでとは思わなかった。 「兄さん—」  ん? 秋葉はブツブツ何か言っている  上手く聞き取れない。秋葉は何て言っているん だ。 「兄さん—兄さん起きて—」 「——起きて—いたんです——か?」 いまいち秋葉の言っている事はわからない。 『起きていたのか?』って言う事は…  それは要するにさっき俺が言った事を秋葉が既に実行していたと言う事だ。 「えーーーーーーーー!  おまえ本当に俺が寝ている時、そんな…そんな事をしていたのか!!」  不覚にも今度真っ赤になるのは俺の方。  予想外のカウンターはハートブレイクショット だ。  呼吸なんて…とてもできない。  どのくらい止まっていただろうか 「す…すみません! 兄さん!」 と言って脱兎の如く、それこそドアも閉めずに秋葉は駆けて行った。  それからしばらくしてやっと呼吸が再開した。  当然の事ながら今から二度寝る気なんて毛頭無 い。折角そこまでして秋葉が起こしてくれたんだから、大人しく起きよう。  そして気づいた。 ———秋葉の奴、持ってきてくれた着替えを置かずに持ちかえってしまった。  肝心なところちょっと抜けてるんだよな。  兄として非常に心配に思う。  仕方が無い。待っていても秋葉は着替えをまた持って来たりはしないだろう。  このまま居間に降りて行く事にした。  居間では秋葉が一人でソファーに座ってまだブツブツ言っている。  手には俺の着替えを持ったままだ。まさしく心ここに在らずってカンジだな。  俺が居間に入ってきたというの事にも全く気が付かない。 「秋葉ぁ〜秋葉さぁ〜ん」   ハッ 「に…兄さん!いつからそこに!? それにどうしたんですか? 寝間着のままじゃないですか」  うむ。秋葉の方が俺より重症みたいだ。  未だに後遺症を引きずっている。  カウンターは凄かったが、俺の勝ちだな。  とりあえず早くその秋葉の手許にある着替えを受けとって着替えたいが、その前にさっきから気になって仕方無い事を聞いた。 「さっきから琥珀さんや翡翠の姿が見えないけど、どうしたんだい?」  いつもなら朝は翡翠が起こしにきてくれるし、琥珀さんが美味しい朝食を作って、秋葉のお茶の相手やらをしている時間のハズだ。 「あら? 昨日兄さんに私言いませんでしたっけ?琥珀と翡翠なら今日の夕方まではメンテナンスがあるので戻れません。」  え?  今度こそ耳を疑った。  めんてなんす? なんだそれは? 「琥珀と翡翠は1週間に一回はメンテナンスをしないと誤作動を起こす可能性があるんです。うちの会社が作った試作機の一号と二号ですから。  まだテスト段階なんですね。」  なんだ?なんなんだ?  秋葉はナニを言っているんだ? 「そんな! その言い方じゃまるで二人がロボットみたいじゃないか!」  慌てている俺に対して、秋葉はあくまで冷静でいる。 「何を言っているんですか兄さん。  琥珀と翡翠の性格設定の時にも立ち会ったでしょう?   おまけにメンテナンスの度に翡翠と琥珀の性格設定を逆にしたりして私を驚かせていたじゃないですか」  確かに言われてみれば… 「そういえば…そうだった気がする…」 「その最初の性格設定の時に『双子の姉妹は性格が正反対じゃないと萌えない!!』っていう私には良くわからない兄さんの意見が結局通って今の翡翠と琥珀が出来たんじゃないですか。  開発者の人達と妙に意気投合してましたよね」  言われてみれば…言われてみればまさにその通りだ。  開発者の人達は気持ちの良いくらいソッチの話のワカル人でそりゃあもうトントン拍子に話はまとまったんだ。 「どうしたんですか兄さん? 少しお疲れなのではありませんか?」  心底心配そうな顔をしている秋葉。  今思うと、確かにどうして俺はあんなわけのわからない事を口走ったのだろうか。  秋葉が心配するのも良くわかる。 「大丈夫だよ秋葉。ただ…ただ何となくだけど琥珀さんと翡翠が人間になっている夢を見たような気がしたんだ…」  そう。理由はわからないけどそんな気がした。  遠い過去だか未来だか、もしくは同じ時間軸上に存在する事ではないかもしれないけどそんな長い夢を見ていた。  でも何だって、二人とも同時にメンテナンスの時期が来るのだろうか?  それがよくわからない。  二人同時にいなくなると流石に困るからと、いつもちょっとずつずらしていた筈だ———  って逆効果だったらしい。  秋葉はもう泣きそうだ。 「兄さんお願いですから。ご無理はなさらないで下さい。秋葉は兄さんが自分の事よりも大事なんですから…」  全く秋葉はさっきから泣きそうな顔でとても恥ずかしい事を言っている。  このままじゃ変な方向に話が行ってしまい そうだ。  なんとかして話題を逸らさないと———— ———そうだ! 「ところで秋葉。なんで今日はこんなに早く俺の事を起こしに来たんだ? まさか朝のお茶に付き合ってくれってわけでもあるまい?」  まあその可能性が全く無いというわけではないというのは否定は出来ないのだが…  それを聞いてハッとする秋葉。どうやら俺をこんな早くに起こそうとした理由をたった今、思い出したらしい。 「そうです兄さん!今日から予備校が始まるのではなかったのですか?」 「って今日は何日だ!? ヲワ! ヲワ!  高校卒業してから日にちの感覚が無くなってたからな。今すぐ出ないと間に合わないぞ!」  そう言って慌てて自分の部屋に向かって駆け出して行く。予備校に持って行く鞄やら筆記用具やらの準備をする為だ。 「そんな兄さん。朝食はどうなさるおつもりなんですか?」  俺の背中をそんな声が追いかけてきた。  秋葉は何を言ってるんだ?  無論これから食べている時間なんて無いし、何よりもいつも朝食を作っている琥珀さんが居ないのだから、どうやって朝食を取ればいいのだ。  とにかく自分の部屋で手早く用意して今度は玄関に向かって急ぐ。  玄関では秋葉が待ってくれていた。 「兄さん…あの朝食は……」  もじもじしながら話す秋葉。  ちょっと様子がおかしい。  それで少しピンと来た。  非常に考えにくい事だし、まずそれは無いと思うのだが…もしかして…もしかしてだけど… 「朝食、秋葉が作ってくれたの?」  コクリと小さく頷く秋葉。  ヤバイ。これは殺人的に可愛い。予備校なんてどうでもよくなってしまうくらいだ。  林檎の皮むきでさえ‘慣れない事’である秋葉にとって料理がどれだけ大変であったかは想像に難くない。  文字通り寝ないで準備しなければ朝食といえど準備できないのではないのだろうか?  しかし流石に初日から予備校サボるのはちょっとマズイ気がする。  きっとそれは秋葉も望む処ではないだろう。 「……ゴメン秋葉…帰ってきたら必ず、冷めていようが何だろうが絶対食べるから、悪いけどそのままにしておいてくれないか? 俺の朝食。  昼飯食べないで帰ってくるからさ」  パァーっと秋葉の顔が明るくなる。 「ハイ!! お帰りをお待ちしていますね。 兄さん!!」  これ以上無いという秋葉の笑顔に見送られて外に出て行った。  真っ青のキャンバスに無造作に置かれた白い絵の具は、散り始めた桜の花と共に風に流れていく。  こんなに天気の良い日は、どこか遠くに旅行でも行きたくなってしまう。  知らず知らすに気分が高揚している自分に 気付く。  天気一つでこうも気分が変わってしまうんなんて不思議なものだ。  そういえば、いつか秋葉と琥珀さんと翡翠の4人で行った旅行は楽しかった。  何の変哲も無い国内旅行だったけど、家族で旅行なんて物は初めての経験だったし、みんなとても楽しめたと思う。  そんな一年以上前の事をフト思い出しながら、何かそれに関連する事で、とても重要な事を忘れているような気がした。  まあそれが本当に重要な事なら必要な時に思い出せるだろう。  今日の日付を確認して、なんとなくそれが切羽詰っているような気もするんだが…… 「本当になんだっけか……」  まあ今は予備校に急ごう。  何せ秋葉が作った朝食をふいにしてまで急いできたんだ。  これで遅刻したら、秋葉に申し訳無い。  そしてスパートをかける。  このままのペースなら意外と早くつきそうだ。  予備校に行く途中、妙に自分に視線が集まっている気がしたが、まあ気のせいだろう———  到着は四分前。  急いで教室に駆け込んだ。  一斉に自分に視線が集まる。初日にギリギリでやってきたのだから、ある程度はわかるが、これはちょっと異常だ。  そう言えば来る途中も視線を集めていた気がするし、背中に何かついてたりするのだろうか?  少し不思議に思いながら空いている席を探して着席する。  すると後ろから声をかけられた。 「よう! 遠野元気だったか?」  休みの間珍しくヤツの家に泊まりに行かなかったので、ヤツの声を聞くのは久しぶりだ。  俺は高校を卒業して——本命の大学に落ちた。  例え浪人して一年遅れで秋葉と並んでしまう事になったとしても、秋葉の兄として中途半端な大学に入るのは嫌だったから、だから滑り止めは全て蹴ったんだ。  だけどヤツは違う。  俺が受験勉強に励んでいる間、散々邪魔をしてきた挙句に、この少子化の中で願書出せば合格するような大学を受験して、見事にサクラチッタ希少な存在なのだ。  ここまで腐ってグチャグチャになった果てに、長い年月を掛けて石化してしまった腐れ縁は、そう簡単に切れるものではない。  3年生に進級した時、ヤツと同じクラスになる事はウスウス予想していたから諦めもついた。  しかし何故予備校でまで同じクラスなのだ!  お互い家が近いこの予備校に通うのはわかる。  しかしクラス編成は学力順だ。 「おい遠野!」  ヤツの頭でこのコースに合格できるはずが… 「おい遠野なんか失礼な事考えてないか?」  ヤツは何かのたまっているようだ。  俺の考えている事がわかるのか? 「おいコラ遠野! 人のことをいつまでも‘ヤツ’呼ばわりするのもやめろ! 折角登場しているのにそれじゃ俺が誰だかわからないだろ!」  そんな失礼な存在は立ち絵を見なくても有彦お前だってすぐわかる———  ってヲイ 「有彦。本当に俺が考えてる事わかるのか!」 「まあ、お前とは長いからな。お前の考えている事なんて顔を見ればわかる」  まあ確かにそれはわかるが、さっきのはそういうのを遥かに超越している別次元の問題だ。  まあ今はそんな事よりもよっぽど不思議な事がある。 「何故おまえがこのクラスにいるんだ?  あまり言いたくは無いがここは去年ある程度勉強していなければ入れないコースだぞ」 「フッフッフッフッ。  そんなのは勉強したからに決まっているだろう。 遠野君」  なにがコイツはそんなに嬉しいのだろう。 「だから何故今になって勉強し始めたのか聞いているんだ」 有彦は俺から目を逸らすと黒板の方を向いた。 「アレだよ。アレ。」 有彦が向いている方向を向く。 「成る程」  黒板の前。即ち講師が立つべく所に立っている女性は確かに美人だ。  要するに、本来居るはずの無い人間が居ると言うこの奇怪な現象はあの美人教師が原因らしい。 「どこで講師の情報を聞いたか知らないが、有彦おまえはこれから通う予備校で美人の話を聴きたいが為だけに、ここまで勉強ができる男だったのか!」 だいたい自分の一年の努力が、こんな不純な動機で最近努力し始めたやつと並ばれるなんて正直物凄く悔しい。   次の全統模試。有彦だけには負けられん…  そんなこんなで始業時間になった。 「それじゃ遠野。また授業が終わったらな」  有彦の席は一番前のようだった。  普段高校で遅刻の常習だったくせに、今日は席取りの為に早くから並んでいたと言うことか…  有彦は本気と書いてマジみたいだ。 「これは本当にウカウカしていられないな」  壇上の美人は一度深呼吸すると喋り始めた。 「みなさ〜ん。席に着いてくださ〜い。  初めまして、知得留と言います。  これから一年間アドバイザーとしてあなた達全員第一志望に合格してもらう為のお手伝いをさせて頂きますので、よろしくお願いしますね」  う〜〜〜ん有彦じゃないけど確かに知得留先生とても良いかもしれない……俄然やる気が出るのは確かだ。  授業一回目の今回は実力を知る為の簡単な試験をするらしい。  よし一年の差は大きいと言う事をまずここで有彦にワカラせてやるか。 「いや〜それにしても遠野と俺で勉強の話題で盛り上がれるとはな。思ってもみなかったぜ」  それはハッキリ言って心底から俺のセリフだと 思う。  休み時間に入って俺と有彦は、さっきのテストの自己採点で盛り上がっている。  見たところまだ俺のほうが若干できるようだ。 「お二人は仲良しなんですか?」  そんな二人の間に知得留先生が入ってきた。  まあ有彦みたいなキャラがこのコースにいて、真面目かつ楽しそうに、俺のような見た目普通の人と勉強の話題で盛り上がっているのは、知得留先生でなくても目をひくようだ。  目をひく、どころかジロジロ見られている。  ただ単に有彦の声がデカいというのもあるかもしれない… 「ところで…遠野君?」  嬉しい事に知得留先生はもう俺の名前を覚えてくれたようだ。  これからもバンバン良い成績をとって自分をアピールして行こう。 「何ですか先生?」 「その遠野君の着ているお洋服随分と変わったデザインですねー」 「え? そうですか。俺はそんなファッションとか興味ないからごく普通のデザインの服しか着ないと思うんだけど…」  と言いながら、初めて気がついた。  成績以上に俺はカナリ知得留先生に自分をアピールしていたらしい。  ———これって寝間着ジャン———  考えてみれば着替えは秋葉が持ったままだ。  朝からやけに視線を集めると思ったらこうゆう事だったのか。  恥ずかしすぎる。  これから一週間、予備校はもちろん街を歩く事は控えよう…  知得留先生は気を使って『変わったデザイン』と言ってくれたが、これは誰がどう見ても寝間着にしか見えない。  というかむしろ知得留先生は嫌味で言ったのかもしれない。  ここまできたら斬新、奇抜を通り越してやっぱりただの寝間着なデザインなのだ。 「有彦ーーーどうして一番最初に俺を見た時に、何故寝間着のままなのか指摘してくれなかったんだーー!」   心外そうな有彦は頭を掻きながら言った。 「へーそれ寝間着なんだーわはははは  俺も確かに遠野にしては大胆な服装だなとは思ったんだけどさ、俺達もう高校も卒業したわけだしそのくらいは普通かなと思ったわけよ。  わははは」  有彦の言っている事はわけがわからない。  高校卒業したって普通の服装をしたい。  しかし、そもそも普段から反社会的な服装をしている有彦にそこらへんの一般人の思考はわからないのかもしれない。  少なくとも本当に有彦は、今の今まで服装を外出着と認識していたようだ。 「へーーーーそれってパジャマだったんですか」  知得留先生はそう言いながら真剣に俺の寝間着を観察してくる。 「じーーーーーーーーーー」  正直カナリ恥ずかしい。 「じーーーーーーーーーー」  う… 「じーーーーーーーーーー」  そして納得したのか 「ハイ。確かにこれはパジャマです」  と言ってニッコリ笑った。  なかなかユニークなリズムを持つ人だ。  即ちこういう事だ。知得留先生も別に気を使って『変わったデザイン』と言ってくれた訳ではなくて心の底から変わったデザインだと思ったのだろう。 結構知得留先生変わっているかもしれない… —しかし—  今現在一番変わっているのは文句無く俺だ。  さっきから視線を集める、改めジロジロ見られているのは、有彦の声のデカさや風体、会話の内容ではなくて、俺一人の服装が原因だったのだ。 「先生、早退します」  とりあえずしばらくは予備校を休む事になりそうだ。 「兄さんどうしたんですか? こんな早い時間に帰ってきて———  ってその格好! 寝間着のままじゃないですか」 まあ正直言うと出かける時に秋葉に指摘して欲しかったが、状況が状況だっただけに秋葉も気がつかなかったのだろう。  秋葉もこの状況に至った経過を理解したようだ。「ごめんなさい兄さん。私が…私が気が付いていれば…」 「秋葉の責任じゃないよ。気にしなくていい」 「でも…」  秋葉は相当責任を感じているようだ。  まあ確かに最初に着替えを持って行ってしまった秋葉に原因が無いとは言えないが、翡翠が居ない今着替えは自分で用意しなければいけないわけだし、今朝の状況を考えれば悪いのは全面的に俺だ。 「そんな事より、秋葉の作った朝食を食べたいな。 正直かなり空腹なんだ」 「は……はい。わかりました兄さん  それでは少し用意をしてくるので失礼しますね」 そう言って秋葉は食堂の方に駆けていった。「用意ができるまで居間で待っているかな」  待っている間、特にする事も無いので今日の新聞に目を通す。  内容は一年ほど前から世界的に暗躍している怪盗『純白の吸血鬼』がどうやら今、日本にいるらしいという事が長々と一面から通して扱われていた。  なんでも昨日都内の美術館が襲われたらしい。  手口は今まで世界各国で起きた事件と非常に酷似しており同一犯である事はまず間違い無いとの事だった。  全然知らなかった。年末から今にかけて、自分の事で精一杯だったからな。  「兄さん。お待たせしました」  どうやら準備が終わったらしい。 「ありがとう、秋葉。それじゃいただくと するかな」  そんなわけで、遅めの朝食をとる事になった。  イスに座ってテーブルの上のモノを見る。  それは一目見ただけでどれだけの手間を懸けたかわかる代物だった。  普段俺は料理なんてしないし、別段グルメというわけでもないのだが、それだけは良くわかる。  朝食とは思えないボリューム。 (もう昼過ぎだから問題は無いのだが)  素材を活かしきった献立。 (ほとんど原料そのままにも見える)  おそらくそれらは独創的な味を醸し出すのであろう事は想像に難くない。  朝に食べなくて、良かったかもしれない… 「どうしたんですか兄さん?」  どうやら秋葉は俺の一挙一動をつぶさに観察しているようだ。  それは即ち自分の正直な感情を表に出す事は許されないと言う事だ。  覚悟を決めるか。 「初めてにしては、良く出来ているじゃないか」  まあこれは実際本心からの言葉だ。  初めてにしては本当良く出来ていると思う。  以前翡翠に無理を言って料理を創ってもらった時の玄妙な味わいは今でも忘れられない。  生来人間には得手不得手という物が有ると言う事をあの時に深く再認識させられた。  そう言う意味では秋葉の料理に対する才能はまあ悪くは無いと思う。 「そ…そうですか?」  その一言がよほど嬉しかったのか、俺におかわりは、いくらでもあるといったような内容をそれはそれは嬉しそうに伝えてきた。 ———墓穴。  この時点でおかわりをしなければいけない事が決定する。 「ごちそうさまでした。  いや最初はどうなる事かと思ったけど本当に美味しかった。  ありがとう秋葉、また今度作ってくれな」  と言ってから『最初はどうなる事かと思った』はまずかったと思ったが… 「はい、兄さん喜んで。私も兄さんに喜んでいただいてとても嬉しいです」  どうやら秋葉は気付かなかったらしい。  本当に嬉しいのだろう。  見てくれは悪いが味は本当に良かった。  むしろちょっと拍子抜けだ。  これからも腕を磨いてもらうためにも、たまには秋葉に作ってもらおう。  見てくれも良くなれば文句無い。  食事の後片付けを手伝いながら、今自分はとても幸せなのかもしれないと思った。  その男のこの国での仕事もこれで最後だ。  何故このような島国の一資産家に彼女が拘るのか知らないが、まあそれは自分の知る必要の無い事なのだろうと納得していた。  昨日までこの国でこなした、いくつかの仕事は誰が見ても明らかなように、西から東にターゲットを移してきたのだ。  実際次のターゲットになりそうな、昨日仕事をこなした美術館より東にある美術館、博物館は厳重警戒態勢をとっているという話だ。  今回のこの仕事は、その法則に明らかに 反している。  それに今までは、美術館、博物館といった公共施設しか狙っていなかったのに、今回は個人のモノが目的ときた。  彼女にとってこの国に来た理由、本命は明らかにこの仕事であり、他は全て撹乱する為の布石だったのだろう。  しかし昨日まで一緒に仕事をこなしてきた自分の親分格である彼女『純白の吸血鬼』は昨日の便で本拠に戻った。  この仕事だけは、自分は関わりたくないと言っていた。  『約束したから』とかブツブツ呟いていた。  いろいろわからない事は多いが、自分はプロで彼女の命令は絶対だ。  そして一つ確実な事はこれは自分の株を上げるチャンスに違いないと言う事。  彼女は失敗を許すような寛大な心の持ち主 ではない。  しかし自分も一個人の屋敷での仕事を失敗するような未熟者でもない。   油断せずに冷静にかかれば何も問題は無い。  そう認識していた。 「・・・・・」 「・・・・・・・・・・・」  自分の意識の外で声がする。  いつの間にか自分は眠ってしまったようだ。  今朝は、いつもより早く起きたし、全力疾走した上に、予備校でいろいろあった為に少し疲れてしまい、朝食?の後すぐ自分の部屋に帰って横になった事をぼんやり思い出した。   おそらくまたアキハが起こしにきたのだろう。  さっきのお返しに今度は、こちらからキスしてやろう。  女心とは難しくてわからないけど、きっと喜んでくれるんじゃないだろうか?  秋葉の喜ぶもしくは困っている顔が見たい。  ハッキリとしない意識の中でそれでも、自分のベッドの脇に立つ人の気配と間合いを正確に読みながら、文字通り不意打ちでキスを見舞った。 「んn………」  ビンゴ。俺ってスゴイ。  しかし…  しかし何か違う気がする。  このカンジはアキハじゃない気がす…る…  目を開けると真っ赤になった翡翠がいた。  要するにそう言う事らしい。  俺は何をしているんだ!  これじゃただの変態キス魔じゃないか!  いくらなんでもどうかしている。 「ゴッゴメン翡翠! その…あの…」  必死になってただただ謝る。 「ご心配なさらないで下さい。秋葉さまにお伝えしたりするような事は致しません」  そういう問題じゃないんだが……  しかし翡翠は本当にあまり怒っているようには見えない。  顔は可愛そうなくらい真っ赤だが…  まあ素振りだけでも本人が気にしていないように振舞ってくれているのだから今回はその厚意に甘えようと思う。 「本当にすまなかった翡翠。寝ぼけてちょっと人違いをしてしまったみたいだ」 「人違い……ですか……」 「てっきりまた秋葉のやつが起こしに来たと思ってさ。本当にすまなかった」  僅かに眉をしかめる翡翠 「知りませんでした。秋葉さまが起こしに来られるときは、お目覚めにキスをなさる習慣がおありになるのですね」  なんか急に翡翠の口調は棘のあるものに 変化した。  もしかして翡翠は怒っているのか?  表情こそあまり変わらないものの明らかに不機嫌になっていると思う。  カタチばかり頭を下げると、さっさと退室してしまった。  女心は難しい。  居間に向かうと秋葉がお茶を飲んでいた。  夕食までには、まだ若干余裕がある。 「兄さんおはようございます。疲れはとれ ましたか」 「ああ、秋葉おはよう。おかげさまで」  翡翠は脇で直立不動の姿勢で立っている。  チラリと顔を盗み見るとまだちょっと怒っているような気がする。  秋葉の向かいのソファーに腰掛けると琥珀さんがお茶を持ってきた。 「志貴さんは日本茶でいいんですよね」 「ああ、ありがとう琥珀さん」  琥珀さんの煎れてくれたお茶を一口啜って、今日の予備校での事を思い出す。  流石にあれは目立ちすぎたと思う。  知得留先生の授業を受けられないのは残念だが、しばらくは予備校には行かず、自宅学習に専念しよう。  今年は有彦に勉強の邪魔をされると言う事は無さそうだし、集中してできるだろう。  そういえば去年、誰が何を言おうと勉強しなかった有彦が、自分から勉強を始めたのだ。  あいつはやる時はやる男だ、本当にウカウカしていたら追い抜かれてしまうだろう。  知得留先生もいるしなんだかんだ言って今年も退屈はしないみたいだ。 「わぁ、また純白の吸血鬼ですかー」  そんな嬉しそうな琥珀さんの声で考えが 中断した。  純白の吸血鬼。そのフレーズにちょっと聞き覚えがある。  そうだ確か一年ほど前から世間様を騒がしている国際的な怪盗だという話だった。  少し興味をひかれて琥珀さんに聞いてみる事にした。  琥珀さんは、なんと言ってもこの屋敷で唯一テレビを所有していると言う程の事情通だ。  世間様から隔離されているようなこの屋敷において一般人並の知識を持っているのは琥珀さんを置いて他にいないだろう。 「琥珀さん。純白の吸血鬼に詳しいの?」  純白の吸血鬼について嬉しそうに話す琥珀さんを見てなんとなく詳しいのかなと思った。 「そうなんですよ。わたし純白の吸血鬼のファンなんです!」  どうやら琥珀さんはその怪盗のファンらしい。  たかが盗人で一般人のファンがつくなんて相当なものだ。 「琥珀さん、その純白の吸血鬼って義賊か何か なの?」  義賊だとしたら、何となくだけどうちは狙われるんじゃないだろうか?  良くわからないけどそんな気がする。 「あはは。志貴さん何も知らないんですね。  純白の吸血鬼っていうのは、世界中神出鬼没で、まるで物語の中の怪盗のように予告状を出したり鮮やかな手口で仕事をこなすんです。  しかも今まで死人はもちろん、たった一人の怪我人さえ出していないんですよね。  今はこの日本がターゲットになっているんですけどターゲットにも法則性があって、次のターゲットを予想してみたりできたりと、わたし達一般人まで楽しませてくれるんですよ。  非公式ですが純白の吸血鬼の次のターゲットを当てるような賭け事のような物も世界中で成立しているようですよ」  まるで自分の事のように嬉しそうに語る 琥珀さん。本当にファンなんだな。 「それで琥珀さん。その純白の吸血鬼っていうのは男なのかい女なのかい?」 「実はそれさえもまだハッキリわかっていないんですよ。しかし最近では純白の吸血鬼というのは複数犯らしいというの説が一般的です」  まあそんな世間話で盛り上がっていると秋葉が割って入ってきた。  秋葉にとってみれば、そんな世間話はどうでも良い事なんだろう。 「ところで、兄さん。明日の事ですけど…」  明日?  明日何かあったけか?  その秋葉の話に琥珀さんものってきた。  見ればさっきまで怒ってたオーラを出していた翡翠も嬉しそうだ。 「そうですよ。志貴さん明日はどうするんですか」 そうだ。明日は確か……  確か朝、予備校行くときも今日と言う日付に違和感を覚えたんだ。 「それにしても志貴さんが日頃のお礼にってわたし達を旅行に誘ってくれた時は、わたし耳を疑いましたよー」 「そうね、兄さんはあまりそう言う事をご自分から口になさらない方だから。  明日は何を着て行こうかしら」 「四人で旅行なんて一年ぶりいじょうですよね。前回の旅行は志貴さんの事を考えて国内でしたけど、今回は志貴さん自ら、海外に誘ってくれるなんて。 わたしも腕によりをかけてお弁当作っちゃいますよー」  二人は大盛り上がりだ。  翡翠まで何を考えているのか幸せそうな顔をしている。  思い出した!  今ハッキリと思い出した。  なる程、それで日程をずらして今日二人同時にメンテナンスをすませたのか… ———それは半年ほど前———  受験勉強で一日中部屋に閉じこもっていた為、秋葉のお茶の相手さえしてやれなかった。  秋葉はそれが仕方の無い事だとわかってはいるのだろうが、それはもう毎日機嫌が悪かった。  そんな或る日…珍しく俺の部屋にやってきた秋葉は、俺の受験が終わったら日頃の感謝をこめて旅行に連れて行けという。  実際バイトもできず、小遣いも貰っていない俺に他人を旅行に連れて行く金はもちろん、自分一人で行く金だって持ち合わせてなどいない。 「そりゃ、秋葉たちには感謝しているし、できれば旅行くらい連れて行ってやりたいけど、残念ながら俺にはそんな金は無いよ。  それは秋葉おまえが一番良くわかっている だろう?」  秋葉はニッコリ笑うと 「お金の事なんて心配しないで下さい。  兄さんのそのお気持ちだけで十分だわ」  と言った。  それから数日後、他の誰でもない自分が日頃の感謝を込めて秋葉、琥珀さん、翡翠を海外に連れて行くと言う事を、真っ赤になった翡翠の口から知ったのだ。  だから当然ホテル、飛行機の予約から、旅行の日程まで、秋葉が決めたものだ。  俺は今だって、海外と言う事だけで目的地や日程さえ知らない。  まあ三人があれだけ喜んでいるのだから俺としても今更文句なんてあろうはずも無いのだが。  丁度予備校も行きにくくなっているわけだし、ちょっとくらい日本を留守にするのも良いだろう。  何よりも四人で旅行に行くのは自分自身楽しみだし、実は海外は初めてなので実は楽しみだったりする。  夕食を済ませて風呂に入った後、明日の為に荷造りする事にした。  まあ男の俺は普段からあまり荷物は多くない。  案の定拍子抜けするほどすぐに終わった。  旅行に行くにあたって必要なのは着替えくらいもののはずなのだ。  下では秋葉や琥珀さん、翡翠までもが明日何を持って行くかで盛り上がっているようだ。  女性は荷物多いっていうしな。  今、あれに混ざるのは危険な気がする。  明日は早い。  明日に備えて早く寝るとしよう。  あんなに昼寝をしたというのに、ベッドに入ると急速に意識は落ちて行った。  俺は明日からの旅行を思って、幸せな夢を見れる気がした。  車が確かに走り去るのを確認した。  車に積み込んでいた荷物からして、ここ数日留守にする事は間違い無いだろう。  住人の表情から察するに旅行にでも出かけるのであろう。  まさに渡りに船である。  善は急げだ。今日を決行日にする事を 決意した。  真夜中を待つまでも無いだろう。  携帯を使って今日の夜の便を予約する。  この国に着いた時に彼女が用意したものだが、随分と便利なものがあるものだと思った。  この屋敷の住人が帰ってきて、それが無くなった事に気付いたときには、自分ももう本拠に戻っていると言う寸法だ。  もともと閑静な高級住宅街といったカンジで人通りは少なく、朝早いと言うことで回りに人影は見られない。  門の側にある監視カメラの死角からまわって、電源の供給を絶った後、速やかに正門の鍵を無効化した。  この間三十秒もかかっていない。  仮に他人に見られても不審に思われたりはしないだろう。  門をくぐると森のように木々が生い茂っていた。 その森の中心にその屋敷は建っている。  自分の国の大きな邸宅とは根本的に作りが違う、自分の国の大きな邸宅の作りは主に線対称が一般的で完全に計算し尽くされた設計をしている。  そこには一分の隙も無い完璧な美がある。  この屋敷ほどに年月を重ねた邸宅であれば、こと庭には関しては、その例に漏れないだろう。  そう言う意味で、こちらの国では庭と表現するのもオコガマシイほどに、不規則な樹木の並びだ。  それゆえに彼は、その庭を森と感じた。  まあ森と言うのは彼の国ではそう簡単にお目にかかれるものではない。  その不規則な混沌を思わせるカンジはどちらかというと彼好みだとも思った。  下調べの時にも感じた事だが、日本の住宅としては、この屋敷は本当に大きいと思う。  その屋敷は堂々と存在しており、来るものを威圧さえするようだった。  冷静に状況を把握する。  建物自体の設計は、こちらよりのようだった。  どちらかというと線対称に近い。  成る程非常に日本人っぽいと感じた。  ゆっくりと玄関まで歩を進める。  ここは回りの森の影響か、外界とは完全に遮断されており、屋敷の中の気配を容易に手に取るように読み取ることができた。  耳をすませて、間違い無く屋敷の中には人の気配はないと確認する。  鉄製の両開きの扉ににかかっている鍵も一秒とかからずに無効化する。  そして緊張の為ではなく、自分を引き締めるために大きく一度深呼吸すると静かに扉を開け、ロビーへと踏み込んで行った。 「—————」 「———起きてください」  聞きなれた声がする。  静かにゆっくりと意識が覚醒へと向かって行く  眠りを引きずることはない。  なかなか理想的な目覚めだ。 「おはようございます。志貴さま」  と言ってふかぶかと頭を下げる翡翠。 「ああ、おはよう翡翠。今日も起こしてくれてありがとう」  日はまだ昇りきっていない———  確か今日は朝早くの便で海外に行くのだ。 「着替えはあちらの方に用意しておりますので、準備が済みましたら、居間の方においで下さい」 「ありがとう。翡翠も自分の準備があるだろう?  俺の事はもういいから自分の事をやっていいよ」「はい、ありがとうございます。それでは失礼いたします」  そう言って扉の前でもう一度律儀にお辞儀をしてから翡翠は退室して行った。  我ながら、こんな早くによく起きられたものだと感心しながら用意を済ませる。  まあ自分が思っている以上に無意識のうちにこの旅行を楽しみにしていたのかもしれない。  遠足を心待ちにしている子供の気分に似ているのだろう。 居間ではもう全員用意を済ませて俺を待って いた。 「おはようございます兄さん。流石に今日は早起きですね」 「ああ、おはよう秋葉。飛行機遅れたら大変だからね」  俺より早く起床して、尚且つ昨日は遅くまで琥珀さんや翡翠と盛り上がっていたようだけど、全く眠そうなカンジはしない。さすがに俺とは鍛え方が違う。 「おはようございます志貴さん。昨日は良く眠れましたか?」 「ああ、おかげさまで良く眠れたよ。こんなに早起きしたのには久しぶりだな」  本当に気分は良好。  こんな晴れ晴れした気分は久しぶりだ  確かに楽しい旅行になりそうだと感じた。  車は音も無く走り始めた。  高級車は乗り心地が違う。車内はほとんど揺れないどころか外の音も聞こえない。  誰の趣味かは知らないが静かに、高級車には不釣合いな歌謡曲が流れていて、微妙な雰囲気を醸し出している。  もちろん心当たりは一人しかいないのだが…  琥珀さんと秋葉は楽しそうに談笑している。  見ると、何時の間に持ってきたのか冷蔵庫には大量のアルコールが入っていた。  何か嫌なカンジがする。気のせいなら良いのだけど…  翡翠は俺の左隣で小さくなって座っている。  別にスペースが無いと言うわけではない。  むしろ四人では広すぎる感もある。  ずっとそんな格好をしていたら、目的地に着くまでに疲れてしまうだろう。 「車の中は広いんだから、そんな小さくならなくてもいいのに。もっとこっちにきなよ」  そう言うと、翡翠はもっと小さくなって しまった……  俺ってもしかしてちょっと嫌われてるのか? 「あら、兄さんは翡翠にはとてもお優しいんです ね」  秋葉が絡んできた。  こんな些細な事で絡んでくるなんて珍しい。 「っておい! おまえもう飲んでるのか!?」  気が付けばビンが二本ほど空になっていた。  何時の間に… 「兄さんは日頃から翡翠には優しいですよね」  琥珀さんは横でニコニコ笑っている。  明らかにこの状況を楽しんでいるよなこの人は  秋葉はまだブツブツ言っている。 「秋葉は酔っ払ったら、寝ちゃうだろ? 飛行機までおぶっていくのは大変だから勘弁してくれ」  まあそう簡単に寝るほど酔ったりはしないのだがそんな事をされた日には、こちらの方がダウンしてしまっているだろう。 「これが飲まずにやってられますか!!」  確か俺が翡翠の事を気遣う前から飲んでいたと思うのだけど………… 「よしよし可愛そうに、秋葉さま。志貴さんは酷い人ですよねー」  そう言ってよしよしと秋葉の頭を撫でる琥珀さんついでに、秋葉にお酌までしている。  そして更に自分のコップにもトクトクと注いでいた。  この人も顔には出ないけど、完全に出来あがってしまっているようだ。  こうなったら俺は正直二人に勝てる自信が無い。 何を言っても無駄だろうし、逆に返り討ちにあうことは火を見るより明らかな事だ。  ここで俺まで酔っ払ってしまったらどうしようもない。  君子危うきに近寄らず。  静かに翡翠と話でもしていよう。  そうすればあっという間に時間は経ってくれるだろう。 ・・・・・  そういえば、翡翠はどうしたのだろうか。  さっきまで俺の左脇に座っていたのだが…  幸せそうなそして控えめな寝息が聞える  少し視線を落とすと——いた——  テーブルの上には半分も減っていないコップが置いてあった。  どうやら翡翠も飲んでしまったらしい。  …全く気がつかなかったぞ…やはり恐るべし琥珀さん。  寝てもやっぱり律儀に小さくなって横になっている。  車の中の空調は完璧だが、それでも念の為風邪をひかないように、上着をかけてやる。  完璧な人型アンドロイドというコンセプトで製作された琥珀さんと翡翠は、ロボットとしての完璧ではなく、人間らしさの完璧を追求して作られた為に体調が悪いもあれば、気分が良い日もある。  もちろん風邪をひくことだってあるのだ。  それでも普通の人よりは丈夫だと思うけど、お酒を飲むと体温が下がるしな。 「兄さんは本当に翡翠には優しいですね」  予想はしていたけどやっぱり秋葉が絡んできた。「私とはお酒も飲めないと言うのに、翡翠にはそんなに気を配って……」  これ以上秋葉の機嫌を損ねるのは得策とは言えないと思う。  覚悟を決めて少し付き合うしかないだろう。  ——気が付けば、琥珀さんにコップを持たされて、お酌をされていた——  どうやら意識を保ったまま空港に到着する事ができたようだった。  空港に着いた時には、琥珀さんと秋葉はいつもの調子に戻っていた。  心配していた自分が馬鹿みたいだ。  二人は物凄くお酒に強いんだと思う。  というかザルなんだ。  しかも編み目はカナリ粗いほうだろう。  残念ながら自分はもういっぱいいっぱいだ。  あと一五分付き合えば意識は無かったと思う。  自覚してたけど俺は押しに弱いみたいだ。これからは本当に気をつけるべきであろう。  だいたい未成年者の飲酒は法律で……  フト冷蔵庫を見ると空になっていた。 ———まあ法律はともかく、まずは素直に無事だった事を喜ぶ事にしよう。  とりあえず翡翠を起こして搭乗手続きをしに行こうと思う。  飛行機が出発する時間まで一般の人が出発を待つ場所とは違う、サクララウンジというどっかの高級クラブみたいなところで待たされた。  こんな特別な場所があるなんて知らなかった。  きっと一般の人は一生知らないで過ごす場所なのだろう。  食べ物は食べ放題、飲み物も飲み放題。  滑走路を一望できるその場所は何から何までとても贅沢だ。  回りにいる人も、芸能人のような業界人っぽい人や、大手のやり手商社マンみたいな人ばかり。  隣のテーブルに座っている、かっこいいブランド物のスーツをその高級さが嫌味にはならない程に着こなした男性は、コーヒーを飲みながら英字新聞に目を通している。  そう。なんというか一言でいえば自分は浮いていると思う。  この空気は自分には合わない。  さっきから出発の時間を今か今かと待っている。 何でも時間になればスチュワーデスさんが来てわざわざ機内まで案内してくれるらしい。  至れり尽せりというわけだ。  こういう至れり尽せりな状況は遠野の屋敷に戻ってそれなりに慣れたと思っていたのだが、それはただ単に、琥珀さんと翡翠に慣れたと言うだけなのかもしれない。  赤の他人に世話を焼かれると困ってしまう。  そもそも俺がここに居ずらい理由は他にもある。 それは連れ、即ち秋葉はこの状況下においてもその良家のお嬢様っぷりが群を抜いていると言う事だった。  周りのテーブルの視線(特に男)を集めまくりである。  まあ街のファミレス等とは違うので、そこまで露骨ではないのだが…  隣のテーブルの男も例に漏れず秋葉の事が気になっているようだ。  俺は間違い無く、琥珀さんと翡翠同様に使用人か何かとして彼らの目に写っているのだろう。  非常に複雑だ。  というわけでここは兄貴として嬉しくもこの上なく居ずらい空間なのだ。  この空間から開放されるのはまだ少し後のことになった。  シートベルトを着用した。  離陸まであと僅かであるらしい。  海外はもちろん飛行機も初めてな俺は緊張しまくりだ。  言うまでも無いが、ファーストクラスと言われる席についている。  他に俺のようにソワソワしているような人は見受けられない。  隣に座っている秋葉なんてアイマスクを着用して睡眠モードだ。  まあ飲み放題(らしい)のお酒をまた飲まれるよりよっぽど良いのだが、こちらとしては気持ちが昂ぶってしまって、せめて話し相手がいないと落ち着かないのだ。  シートの合間から後ろを見ると琥珀さんも翡翠も落ち着いたものだ。  二人もたぶん初めてな筈なんだけどな…  しばらくして飛行機は離陸したようだ。  特別、自分が空に浮いているとか飛んでいると言う感じは受けなかった。  なんだたいした事ないじゃないか。  もっとダイレクトに浮遊感みたいなものを味わえる物だと思っていたのでちょっと拍子抜けかもしれない。  冷静に考えればそんな事では機内食も飲み放題も何も無いのだが…  まあライトは薄暗く設定されていて眠るのには丁度良いかもしれない。  昂ぶっていた気分も冷めてしまったみたいだ。  この飛行機に乗る時に初めて目的地を秋葉から知らされた。  俺はどうやら日頃の感謝をこめて三人をイギリスそしてユーロスターを経由してフランスに連れて行く事になっているらしい。  ヒースロー空港まで十二時間。どっちにしても眠らないと時間はつぶせそうに無い。  ここは大人しく眠ることにしよう。  眠る前に少し気になった事を秋葉に聞いておく事にした。実はもう今更遅いのだが聞かないよりはましだ。 「なあ秋葉起きてるか?」 「何ですか? 兄さん」  アイマスクをとってこちらを向く秋葉。 「俺達が留守にしている間、屋敷の方は大丈夫なのか? 誰も居ないのは流石に少し無用心すぎるんじゃないか?」  なんといってもあの屋敷は金目の物でしか構成されていないトンでもない屋敷だ。  用心するに越した事はないはずだ。 「兄さんのご心配にはおよびませんわ。  兄さんはそんな事よりこの旅行を楽しむ事だけに集中してくださいな」  まあ秋葉がそう言うなら大丈夫なのだろう。  こういう事に関しては秋葉を全面的に信頼しているのだ。 「わかった、ありがとう秋葉。それじゃあ俺は少し寝る事にするよ」  時差ボケとやらも考えれば寝た方が良いだろうし安心したら本当に少し眠くなってきた。 「わかりました兄さん。私も少し寝ますね。良い夢を」 「うん。おやすみ秋葉」  そう言って静かに眠りに落ちて行った。  そして緊張の為ではなく、自分を引き締めるために大きく一度深呼吸すると静かに扉を開け、ロビーへと踏み込んで行った。  なかなか凝った内装だ。  どれもこれもそれなりに値の張るものばかりである事が一目でわかる。  しかし今はそんな物に気を取られている時間は無い。ターゲットのそれは東に位置する方の棟の二階奥と聞いている。 「長居は無用」  そう呟いてもう一度辺りの気配を確認してから、ゆっくりと階段に向かう。  辺りは気味が悪いほど静まり返っている。  普段は人が生活している場所とはとても 思えない程だ。  唐突に  後ろから声をかけられた。 「あなたは誰ですか?」  !!  正直心臓が飛び出るほど驚いたが、慌てず焦らず今の状況を把握する。  慌てれば乗り切れる状況も乗り切れなくなってしまう。  まず、この屋敷の住人は男一人に女三人。  これは間違い無い。そしてその四人が今さっき車に乗って出かけたのはこの目で確認した。  さらに屋敷に入る前に人の気配が無い事は確認した。それも間違い無い。  自分がこの屋敷に入るまで確かにこの屋敷には人間はいなかった。  要するに、今自分に声をかけた誰かは、俺より後に入って来たと言う事になる。  同業者か? これほどの屋敷なら自分以外にチャンスを狙っていたものがいてもおかしくはない。  また口調や喋った内容から、この家の人間のようにもとれる。   屋敷の人間が忘れ物にでも気が付いて取りに来たであろうか?  しかし例えそれでも、この自分に気付かれることなく、この屋敷に侵入した事になる。  いろいろな事を素早く頭の中で整理する。  現時点でわかっている事を総合すると、目的もわからなければ、得体の知れない人物であり、相手の出方がわからない以上、普通にやり過ごすのは極めて困難である。  この状況を乗り切るためには眠ってもらう他ないだろう。   しかし一切の怪我人を出さない事が『純白の吸血鬼』のポリシーだ。  それに逆らった場合、怪我人になるのは自分の方だろう。  間髪入れず振り向くとありったけの力をこめて魔眼を発動させた。 『眠れ、そして今見た事は忘れろ』 『眠れ、そして今見た事は忘れろ』 『眠れ、お前は何も見なかった』  ドサリと、眠りに落ちて糸の切れた人形のように倒れる…は…ず…だ  しかし何もおこらなかった。  相手は何が可笑しいのか微笑みさえ浮かべて いる。 —————おかしい  何が可笑しい! ————————何かがおかしい  何が可笑しい! ————何故眠らない!  自分の全力の魔眼を受けて平気でいられる程に心を強く持てる人間はそういない。  不意打ちであれば尚更だ。  そして最大の違和感は、目の前にヒトが存在する今もヒトの気配がしない事。  最初から…自分がこの屋敷に侵入する前からきっとヤツはそこにいたのだ。  自分に気配を感じさせない人間。  コイツは危険だ。  直感がそう頭の中の警笛を打ち鳴らす。  相手は今も微笑を絶やさない。  警笛はいっそう大きくなる。  ポリシーなんて関係無い。  ヤらなければ……ヤられるのは俺のほうだ。  相手を少しでも油断させるために、両手を挙げて愛想笑いをする。  ヤツはまだ笑っている。  相手は明らかに普通ではない。  それならこんな事をしても意味は無いか——  今度こそ緊張している自分を落ち着かせるために大きく深呼吸すると、一足飛びに間合いを詰めて必殺の一撃を放った。  ヤツは流れるような動作で軽く片手で俺の一撃をいなすと、その勢いを殺さずに素早く後ろに回りこんで背中に当て身を食らわせてきた。  普通の人間なら今ので失神確実の衝撃だろう。  意識を刈り取られそうになりながらも態勢を立て直してつつ素早く距離をとる。  ヤツはどうやら合気道の使い手らしい。  正直その腕前にかなり面食らったが、ヤツの動き見えなかったわけでは無い。  所詮人間レベルのスピードと言える。  どちらかと言えば、後の先を取る事に秀でている武術、合気道。  それならば先の先で持って人間ではまず応じられない速攻を仕掛けるまでの事。  ヤツは相変わらず笑みを絶やさない。  当然息も全く乱れていないようだ。  この俺が気圧されるているのか?  バカな。  雄叫びをあげて地面を蹴る。  こうなったらもう手加減はできない。  彼女は本気で怒るだろうが、ヒトを殺す決意をした。  目を覚ました。  突然気が付いたら目が覚めてたといったような目覚め。  さっきまで眠っていた余韻が全くと言って良いほど感じられない。  よほど眠りが浅かったのか。  いつもと目覚める場所が違うので、少し頭の中が混乱したが、それでもすぐに今自分が飛行機に乗っている事を思い出した。  まあ乗り物の中で長時間寝るなんて事に慣れていない事もあるのだろう。  長時間同じ姿勢でいた為に体中がダルイ。 「おはようございます、兄さん」  いつの間に起きたのか隣では秋葉が静かに読書をしていた。  何でも、あと四時間あまりでヒースローに到着するとの事だった。  それにしても屋敷の方は本当に大丈夫なのだろうか? 秋葉の事は信用しているけど、どうしてそこまで大丈夫だなんて断言できるのだろうか。 「秋葉、寝る前に屋敷は大丈夫だって断言していたけど、誰かに留守番でも頼んだのかい?」  安全を確信している理由を聞けば俺も屋敷の事についてこれから心配する事もなく、旅行に専念できるというものだ。 「ハイ。翡翠二式と琥珀二式に留守を頼みました。両名とも化け物の一個大隊を消滅させるほどの武装をさせているので心配ありません」  よくわからないけど、要するに翡翠と琥珀さんの妹が完成していて、トンでもない火気を持ってお留守番をしていると言う事らしい。  心配するのはむしろ不幸な侵入者の身の安全って事になるのかもしれない  まあこれでいいのかわからないが一安心だ。  琥珀さんと翡翠はどうしてるかな。  そう思って後ろを向くと何やら、琥珀さんが水の中でするバタ足のように足を動かしている。  琥珀さんがしている行動がイマイチ掴めない。 「ど、どうしたの? 琥珀さん。そんなに足をバタバタさせて」  不思議な動きを中断してこちらを向く琥珀さん 「あ、志貴さん目が覚めたんですね。おはようございます」 「おはようございます、志貴さま」  琥珀さんに続いて翡翠の声。  そう言うとまた動きを再開した。  見ると翡翠も控えめながらも足を動かして いる。  翡翠はとても恥ずかしそうだ。 「おはよう、二人とも。本当にいったいどうしたんだい」 「知らないんですか? 志貴さん。こんな風に足を動かさないと死んじゃうんですよ」  琥珀さんは笑顔でとても怖い事を口にした。  聞き捨てならない。 「それって、どういう事?」 「こういう飛行機のような狭い空間でですね、ずっと動かないでいると、気圧が低いのと足のほうの血の巡りが悪くなる事が原因で肺塞栓症、即ちエコノミークラス症候群になって、下手すると死んじゃう事だってあるんですよ。  ファーストクラスだって油断しちゃ駄目です。  だから予防策としてこんな風に足を動かして血の巡りを良くするんですよ」  うん確かにエコノミークラス症候群というのは聞いた事がある。  こんな風に足をバタバタさせなければいけないと言う事までは知らなかったが、流石に薬剤師の資格を持っている琥珀さんは、いろいろな事を知っているものだ。 「それじゃ、俺もちょっと足を動かすよ」  そう言って前を向くと琥珀さんの真似をして、足をバタバタさせ始めた。  自分でやってみてなんだけど非常に恥ずかしい。「…………」  隣の秋葉の視線が痛い。  何て言うか変人を見る目だと思う。 「…………………」  知らないというのであれば秋葉にも教えてやらなければ。  秋葉も言葉がろくに通じない国での入院は嫌だろう。 「秋葉、あのなおまえ俺の事を変人を見るみたいな目で見ているけど、これはれっきとした……」  根拠のある有意義な行動なんだぞと言おうとして琥珀さんの声に遮られた。 「ちょっと、ちょっと志貴さん。そこまで真剣に間に受けないで下さいよ」  後ろを向くと笑いを堪えきれないといったカンジの琥珀さんがいた。 「え? どういう事ですか? 俺はただ何も知らない可愛そうな秋葉に、エコノミークラス症候群の恐ろしさについて教えてやろうと思っただけなんですけど」  すると琥珀さんはまるで悪戯に成功した子供のように、本当に嬉しそうに笑った。 「やだなー志貴さん。冗談ですよ、冗談」 「冗談?」 「そうですよーエコノミークラス症候群っていうのは、それこそ必要な時にちょっとトイレに立つくらいの運動でも十分防げるんですよ。  飛行機に乗るとする事が無くて必然的に水分を多くとる事になると思うので、トイレさえ我慢しなければそれだけで十分な運動になります。  特にわたし達くらいの年齢なら尚更です」  真っ赤になって足を動かすのを止めた。  恥ずかしい…  まあ確かに考えてみれば俺みたいな珍妙な動きをしている客は他にいないし、スチュワーデスの人も不思議そうな哀れみの混じった目で見ていた気がする。  俺は、まんまと騙された、もといおもちゃにされたらしい。 「そっそうなんですか? 今の話は本当なんですか姉さん!?」 「ごめんねー翡翠ちゃん」  あまり反省したようには聞えない琥珀さんの声が聞える。 「ひどいです姉さん」  翡翠は余程恥ずかしかったのか、俯いたまま顔を上げられない様だ。  …翡翠も遊ばれてたのか。  普段から二人きりの時ってこの姉妹はこんなカンジなのかもしれない。 「琥珀、あまり兄さんで遊ばないで下さい」  秋葉は秋葉で自分のおもちゃを横取りされた子供のように機嫌が悪い。  というかやっぱり俺はおもちゃなのか?  程なくして機内食が運ばれてきた。  秋葉は動かないで食べると太るから(とは言わないが)食べないらしい。  俺はというと、一回目の食事の時に寝ていたのでそれなりにお腹は減っているようだ。  別に秋葉は太るとかそんな事全然気にする必要な無いと思う。  逆にもっと食べて、いろいろとある部分栄養をつけてもらいたいくらいだ。  そういろいろと。  まあそんな事を実際に口にするほど俺も馬鹿では無いので黙って遠慮無く秋葉の分もいただくことした。  琥珀さんの料理と比べたら可愛そうだけど、結構いけるものだ。  今日も本当に疲れた。  もう一歩も動けないとはまさにこの事だろう。  ロンドンに着いて三日目の夜。  とある間違い無く超の付く高級ホテルの一室で俺は休んでいた。  初日は十何時間も飛行機に乗っていたにも関わらず時差の関係上、現地時間ではまだ昼だった。  空港から出るとそこはイギリスだった  ここはイギリスなんだから当たり前だ。  初めて海外に来たと言うのに我ながらなんて間抜けなセリフしか思い浮かばないのだろう。  きっとそれだけ浮かれていたのかもしれない。  何もかも鮮しい空気と雰囲気に圧倒されっぱなしだった。  最初からノンストップトップスピードで四人の旅行は始まる。  まだ始まったばかりだというのに、この三日間はとても目まぐるしく過ぎて行って、未だに現実感さえ伴わない。  初めて来る海外の余韻に浸る間もなく、この上なく楽しそうな三人にハロッズやら俺にはよくわからない買物に付き合わされた。  秋葉は、雰囲気が出るからと言って、琥珀さんや翡翠ではなく俺に全ての買物した荷物を持たせてきた。  そんな妙な雰囲気は金輪際お断りだ。  最後には極大のハッロズベアを秋葉に秋葉のお金で俺から秋葉にプレゼントさせられた。  秋葉曰くプレゼントしてくれるという気持ちだけあれば十分でお金なんて物はどうでも良い事 らしい。  終始秋葉お嬢様はご機嫌だったようだ。  夕食はこれまた俺みたいな日本人は場違いなレストランだったが、日頃からテーブルマナーについて秋葉にうるさく言われている俺は、まあそれ程戸惑わずにこなす事が出来た。  散々付き合わされてくたくたになってホテルに着くと、まあ予想はしていたけどその高級っぷりにただただ驚いた。  そのセンスからさえ高級さを漂わせる風格は日本の高級ホテルとは別物だった。  まあ日本の高級ホテルにも宿泊した事はないのは内緒だ。  それでも人間の順応力というのは大した物で疲れていたのですぐに眠りについた。  遠野の屋敷に順応したこの俺だ。  その順応力は凡人の及ぶ処ではないのかもしれない。  二日目の昨日は朝からロンドンの観光地巡りだった。ビクトリアステーションから歩いてバッキンガム宮殿まで行って衛兵の交代を眺めた。  その後、赤い二階建てのバスにのってピカデリーサーカスで軽くショッピング。  そして、またバスに乗って今度はビッグベン方面へ、そこから歩いてテムズ川を下る船に乗ってタワーブリッジを臨みつつ、ロンドン塔へ。  ロンドンの観光名所をフルコースで回った後に、夜は本場イギリスのパブで飲んだ事は言うまでも無い。  日本人女性観光客達(あえて誰とは言うまい)のその剛毅な飲みっぷりは注目の的だった。  とここまでの数々の観光名所を諸事情により皆さんにお見せできないのは非常に残念だ。  ホテルでの回想で我慢して欲しい  三日目の今日は大英博物館を見学した。本物のミイラがそのまま置いてあるのは圧巻だ。  それから一度ピカデリーサーカスの方に戻ってセガのアミューズメント施設やナムコのゲームセンター等に行った。  ゲームに興味があるってわけではないけど日本人だしな。  そこには古いプリクラが置いてあって、残念ながらフレームは日本のものと同じだったけど、折角だから記念に四人で撮影した。  実際こういう機会でもなければ四人でプリクラなんて無いだろう。  とても良い思い出になったと思う。  最後はシャーロックホームズ博物館に行った。  ここは全世界の高名な探偵が所属する探偵協会の本部にもなっているらしい。  詳しくはよくわからなかったが、迷宮入りしそうな難事件等が起きた時には世界中の警察機構から操作依頼が来るらしい。  確か明日はユーロスターで三時間ほどかけてフランスに行く予定だ。  ロンドンの夜は今夜が最後、明日もきっと忙しくなるのだろう。  睡眠をしっかりとっておかないと大変な事になりそうだ。回想はここまでにして、まだ十時にもなっていないが、寝る事にしよう。  文字通り命からがら逃げ帰ってきた。  まるで悪夢のようだった。  ヤツは人間ではない。  生物でさえない。自分に生きているモノの気配を最後まで感じさせなかったのだ。  自分が狩られる立場だという事を思い知った。  今自分が生きているという事だけを今は素直に感謝したい気分だ。  空港からタクシーを拾うとそこから本拠に直行した。  我々は今ロンドンにある高級ホテルの最上階を貸し切りにして使っている。  最高の仕事をしながらも、細心の注意を払って目立つ事を極力避けてきた為に、車も家も馬も買わない我々にとってホテルのワンフロア貸し切りが唯一の贅沢なのだ。  最近の活動は主にそこを拠点にする事が多い。  実際はほとんど留守にしているのだが、それ故にそろそろ協会の人間も嗅ぎ付けてくる頃だろう。  そろそろあのホテルも引き払って新しい場所に移るように彼女に進言しよう。  今、協会と揉めるのは賢いとは言えない。  タクシーから降りてホテルのロビーを真っ直ぐに横切りエレベーターに乗った。  いい加減見なれてきたロビーの風景の中で…  途中とても信じられないものを、現実だと認識していても頭が信じようとしないものを見たような気がした。  気持ちを落ち着かせて最上階のフロアのボタンを押す。  何かの間違えに決まっている。  ここまで自分を追ってきたのか?  信じられない。  それこそ時間的に不可能だ。  自分はきっと思った以上に疲れているのだろう。 彼女に笑われるのを覚悟で正直に相談しよう。 ———その前に忘れてはいけない重要な問題を思い出した。  自分は仕事に失敗した。  笑われる前にヤツ裂きにされるかもしれない。  どちらにしても後にはひけない。  最近多い深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから彼女のいる部屋をノックした。  「————」  「————————」  上が騒がしい…そろそろ日付が変わろうとしているのに…どうしたというのだろうか…  睡眠を邪魔されたのに不思議と腹はたって いない。  そんな事よりも好奇心が勝っているようだ。  喧嘩か何かをしているのだろうか。  何か物凄く気になる。  気が付けば眠気はとうに失せてしまった。  しばらく考えてからやはり様子を見に行ってみる事にした。  しかし、そんな考えを巡らせているうちに、上の方は静かになっている。  ……それでも妙に気になる。 「行ってみるか」  自分自身の意思を確認する為にそう呟くと、ベッドから出て、簡単に上着を羽織ってから部屋を 出た。  廊下も十分な広さがあり、装飾や飾ってある絵画から、どこか中世の城を連想させる。  薄暗い照明と合わせて、人通りの全くないこの廊下はある種のの雰囲気を感じられる。  気のせいだろうか、つきあたりの角の向こうから足音が聞える。  気のせいではない。  確かに聞える。  それも一人ではない。  いったいこんな時間に誰が…  緊張のため思わず身構えてしまったが、冷静に考えてみれば、さっきの騒ぎで秋葉達も起きてしまったのかもしれない。  秋葉の事だ。上のフロアの人間に文句の一つでも言いに行ったのだろう。  それならば上のフロアが急に静かになったのにも納得がいく。 ————しかし  そのつきあたりの角から現れた者は想像を遥かに越えるものだった。  話はまだ最後まで済んでいないと言うのにあちらこちらから物が飛んでくる。  きっとこの音は下まで響いているに違いない。  間もなく下から苦情が来るだろう。 「すっすみません姐御」 「謝って済む問題じゃないわ。わたし達はいったい何の為に日本に行ったと思っているのネロ?」  イスが飛んでくる。 「たっ、ただヤツの腕前は本当に人間業とは思えません。実際最後の最後までヤツの気配を読み取る事はできませんでした」  今度はベッドが飛んできた。  理由など関係無い。  アルクの姐御はそれを手に入れられなかった事がよっぽどお気にめさなかったようだ。 「それでネロ、貴方は結局それを手に入れられずにおめおめと帰ってきたわけね!   この場で無に還りなさい!」  彼女の本気がビシバシ伝わってきた。  この場で空想具現化等をされたら防ぎようが 無い。 「ちょっと待ってください。最後まで話を聞いてください!」  相変わらず攻撃態勢のままだが、とりあえず話を聞いてくれるようだ。 「何なのネロ。遺言を遺す相手なんて貴方にはいないでしょう?」 「違うんです姐御。ヤツが、ヤツがこのホテルまで来ているんです! ヤツは以前姐御が写真で教えてくれた例の屋敷の主人と一緒のようでした。  きっと我々を追ってきたんですよ!」  少し興味を示してくれたのか先程までの威圧感が消えた。 「屋敷の主人というのは黒髪の少女の事?」 「はい、そうです。おそらくどこかで合流したのでしょう。とにかくこの場は危険です。  一刻も早く離れましょう!」  気が付けばアルクの姐御はブツブツと何か呟いている。  話しかけても心ここにあらずという感じだ。 「彼女が来ているなら、きっと彼もここにいるに違いないわ」  最後にそう呟くと部屋を出て行ってしまった。  何がどうなったのか良くわからないが、この場合自分はついていくしかない。 「アルクェイド!」 「志貴!」  何故アルクェイドがここにいるのだろうか?  一年程前に『志貴は学校ばっかり行ってて遊んでくれないからつまんない』と言って急に俺の前から消えた、お気楽アーパー吸血鬼のアルクェイドが何故?  もうてっきり俺の前には現れないものだと思っていた。  眩暈がする。  いま、家族旅行中という状況下、アルクェイドはどう転んでもトラブルメイカー以外の何者でもないだろう。  秋葉は怒る。  琥珀さんは笑ってる。  翡翠は無表情だけど怒ってる  というわけだ。 「アルクェイドいったいどうしたんだ?  突然いなくなったくせに、またエライ中途半端な時期と場所で登場するんだな」  本当にこちらの都合などおかまいなしだ。 「何言ってるの? わたしは志貴が学校を卒業するのを待ってたんじゃない」  当然じゃない。といったカンジだ。  という事は学校を卒業してしまった今、これからまた付きまとわれるのだろうか…  言っても聞かないのはわかっているが  せめて、それはこの旅行が終わってからにしてもらいたい。  アルクェイドの後を追って黒い男がやってきた。「いったいどうしたんですかい? 姐御」  見た目も変だが、アルクェイドみたいな変なヤツを姐御呼ばわりするのは物凄く変だと思った。 「ちょっとネロはうるさいから黙ってて!」  まあアルクェイドに友人がいるなんて知らなかったけど、いるとしたらこのくらいは変じゃないといけない気がする。 「その人アルクェイドの友達だよね?」  とりあえず説得する為にあたり障りの無い話題から、入る事にしよう。 「ブーーーーー」  アルクェイドはとても嬉しそうだ。 「こいつはネロ・カオス。わたしの家来だよ♪  わたしと違って血を吸う悪い吸血鬼だけど、わたしがちゃんと見張ってるから大丈夫。  もちろん志貴には指一本触れさせないからね」  アルクェイドは得意げだ。  人の血を吸う凶悪な吸血鬼とそれを家来にしている、さらにタチの悪い吸血鬼を前にしてとても難しいが  ………たぶんここは喜ぶところなんだろう。 「あ…ありがとう、アルクェイド…」  とりあえずいつまでもここにいるのはまずい。  とりあえずホテルの外に連れて言って、よ〜〜く事情を説明してお帰り願おう。 「とりあえず、アルクェイド。ここじゃなんだから外に行こう」  すると間髪いれずに秋葉の声。 「こんな時間にそんな若い女性を連れてどこへ行くおつもりですか。兄さん」  ヤバイ。とてもヤバイ状況だと思う  しかも物凄い勢いで誤解されかねないところだけ聞かれてしまったようだ。  続いて琥珀さんに翡翠も出てきた。  琥珀さんはこの状況を喜んでるみたいだ。 「あははー志貴さんやりますねーー  板ばさみ、板ばさみ♪」  この人はまたわけのわからん事を…  翡翠は翡翠で、まるで非人を見るかのごとく目をしておられます。  なんか視線だけで心が痛いッス。  そりゃあもう必死に無い頭を振り絞ってこの状況を打開するために考えを巡らせるのだが、ろくな言葉が思い浮かばない。  そんな中、ネロと呼ばれていた男の様子が変わっいた。 「ヤツが二人? ばっ馬鹿な!!  姐御! ヤツです! 気をつけてください!」  彼はどうしたんだろう。脂汗さえ流している。  琥珀さんや翡翠を見て震えているのか?  輪をかけて変なやつだ。 「そこまでです! 『純白の吸血鬼』いえアルクェイド!」  そんな声で一斉にみな振り向く。 「し…知得留先生…?」  いわゆる物語は急展開というやつらしい。  もうさっきからわけがわからない。  なんでここに予備校の講師であるはずの知得留先生がいるんだ。 「クッ、協会の人間か!」  男はもう可愛そうなほどに萎縮してしまって いる。  男やアルクェイドはこの状況を理解しているようだ。  知得留先生は変な格好をしている。過激なコスプレ風だ。 「知得留先生…あなたはいったい…」  そのセリフを待ってましたといったふうな知得留先生。 「フフフ内緒なんですけどね、実は!  予備校講師は世を忍ぶ仮の姿!  わたし名探偵なんですよ!」  まあ昨日今日出会ったばかりの人が肩書きが変わったところで別段驚きはしない。  どちらにしても服装や肩書きが別になったところで、第一印象を見事に裏切らない人だ。  本質は何も変わっていない。知っている人が見れば完全にバレバレだ。  きっとこれまでも、あんなカンジで数々の世を忍んで来たのだろう。  ちょっとウンザリした口調で質問する。 「それで、名探偵であるところの知得留先生は何故ここにいるんですか?」 「わたしは探偵協会に属する人間です。そして世界各国でおこっている『純白の吸血鬼』事件を解決する為に編成されたチームの一員でもあります」  あまりにも唐突な話だ。 「要するに、そのまんまな気がするけど、アルクェイドが世間を騒がせている純白の吸血鬼ってことなんですか?」 「はい、その通りです。わたしが日本に来たのも純白の吸血鬼を追って来た為です。  いつも彼女の魔眼によって目撃者や関係者の記憶は消されてしまうのでこの事件絶対に目撃者や証拠が残らないんです。  そんなわけでわたしは、自ら彼女の犯行を目撃する為に、比較的後を追いやすい彼女の舎弟格であるネロという男を張っていたんですよ。  最近ずっとネロはあなたの屋敷を気にしているようだったので、予備校の講師になったのはあなたと知り合いになる為です」  なんか現実離れした話だけど、アルクェイドが関わっている以上、現実感というものは皆無なのだろう。そういうのには慣れている。 「なるほど。だいたいの事はわかった。  だけど、そのネロはなんで俺の屋敷を 狙ったんだ?」  確かにウチには金目の物は多いけど、そんな世界中で活躍している大泥棒が執着する程では無いはずだと思う。 「それは上司であるアルクェイドの命令以外に無いでしょう。  そしてそれは志貴さんあなたが深く関係していると思います」  やっぱり、そこのところが良くわからない。  ここは本人に聞いてみるのが一番良いだろう。 「いったいどういうことなんだ、アルクェイド?  急にいなくなったと思ったら、今まで人様の物を奪ってたのか? それにどうして俺の屋敷を狙ったんだ?」  アルクェイドは、そっぽを向いて知らん振りをしている。  まるで悪戯が見つかってしまった子供だ。  拗ねているのだろう。 「えーー! 貴方が『純白の吸血鬼』なんですか」 一連のあらましを聞いていた、琥珀さんが喜びの声をあげる。 「わたし、ファンなんですよ! 握手してください握手!」  この人はもうちょっと場の空気というものを読んで欲しいと思った。  琥珀さんはどこからか色紙を取り出してサインまで貰っているようだ。  世界中に色紙にサインを入れる怪盗はアルクェイドだけに違いない。 「頑張ってくださいね!」  興奮気味に語る琥珀さん。いったいアルクェイドに何を頑張らせるつもりですか、あなたは?  しかしそれでアルクェイドは随分と機嫌を良くしたみたいだ。 「えへへー」 「おい、アルクェイド! おまえ本当になんで俺の屋敷を狙ったんだ!」  そこの所はハッキリさせねばなるまい。 「それは……………」  余所見しながら答えるアルクェイド。 「それは、何なんだよ?」 「わたしが、いない間に志貴が何をしていたか知りたかったから…」  アルクェイドの言っている事は全然よくわからない。 「だから、それで何で俺の屋敷に忍び込むんだ?」「志貴の日記が見たかったんだもん…」 ———— ——————— ————————————— 「俺、日記なんて書いてないぞ」 「えーーーーなんで!マッキーは手記残してたジャン!!」  アルクェイドにとっては、天地がひっくり返るほどの衝撃だったようだ。  っていうかマッキーって親父のことか? 「今時日記なんて書いている高校生の方が珍しいんだよ!」 「あっ姐御! そんな! それは、世界中で何よりも重要な機密文書って言ってたじゃないっすか!」 「うるさいわね、ネロ。わたしにとってはそうなのよ! 文句あるの!?」  ワーワーギャーギャー今度は内輪揉めらしい。 「とにかくアルクェイド! あなたはこれから自首してください」  そんな二人に知得留先生がズバリと言い放つ  確かに罪は償わなければなるまい。 「なんで?」  本当にわからないといったカンジの アルクェイド。 「なんで?じゃありません。今まで貴方は怪我人こそ出さなかったまでも、『純白の吸血鬼』としてさんざん盗みを働いてきたのでしょう?」 「わたし、そんなの知らないもーん。  だって証拠はいつも無いんでしょ?  今回の事だってネロが勝手にやった事よ。  それにそれだって未遂に終わったんだから、せいぜいネロが家宅侵入で訴えられるってところじゃないの? わたしは関係ないわ」  いや、さっきからさんざん犯行を認める発言を連発していると思うのは気のせいだろか?  琥珀さんが貰ったサイン色紙には 『世紀末の魔術師、純白の吸血鬼参上! Byみらくるアルクェイド!! PSこれからも応援よろしく』 としっかり署名付きで書いてある。  それなのに、知得留先生は考えこんでしまっている。 「確かに、それは困りましたね〜  こうなったら現場を抑える為にも、しばらく貴方の後を付け回るしかないですね」  あなたは本当に探偵ですか? 知得留先生。 「勝手にすれば〜わたしは志貴がいればあとはどうでも良いわけだし〜  わたしは志貴がいるところに行くだけよ」  ううう…さっきから翡翠と秋葉の視線が痛い… 「姐御! あっしはどうすればいいんですか!」 「兄さん、お邪魔でしたらわたし達は先に帰りましょうか?」 「そんなわけで、わたしはこれからも予備校講師する事になりそうです。よろしくお願いしますね」 「…………………」 「あははー翡翠ちゃん目が怖いよー」  俺は悲しい。  そんなわけで生活費の為(らしい、というかいったいどんな生活してんだ!)世界中で盗みを働いていた(本人は未だに否定しているが)アルクェイドは、その後旅行に同伴する事になる。  知得留先生も尾行?を続けているようだ。いろんな処で知得留先生の視線をビシバシ感じる。  特にアノ食事の時なんて凄かった。一緒に食べたいんじゃないだろうか?  まあアレは特別なんだろう。  ネロさんは、実はとても良い人みたいで、今は、琥珀さんや翡翠の使いっぱしりみたいな事をしている。  ネロさんにとっては琥珀さんや翡翠も『姐御』らしい。よくわかんないけど。  琥珀さんは相変わらず、ニコニコしている。  翡翠も相変わらず無表情………という事にしておこう。  秋葉は、なんとか機嫌を直してくれたみたいだけど、やっぱりアルクェイド達がいる時はとても機嫌が悪くなるみたいだ。  明日の夕方帰国する。  今日は危うくエッフェル塔や凱旋門を崩壊させるところっだたりと、まさに波乱万丈の旅路だったけど、本当に楽しかった。  日本に帰ってからもきっとこんな日常が待っているのだろう。受験生だというのに…とても大変に違いない。  巴里の夜空を眺めながら旅行最後の夜を楽しむ。 今夜は確か屋外で盛大にパーティをやると言っていた。  すなわちまあ大変なんだろう。  翡翠も今夜はかなりやる気まんまんみたいだ。 「兄さ〜ん、乾杯しますよ〜」  秋葉の声が聞える、そろそろ行くか。  明日の朝を無事迎えるためにも頑張ろう。  月が———  月が、とても綺麗な夜だった。  それ以降の記憶は残念ながら、無い。 —————以来『純白の吸血鬼』という名の怪盗が世間を騒がせることは無かったという—————— /END